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ジャイプールのジュエリー工房で職人さんとのやりとり。
以前1つのデザインに、思い通りに行くまで4回やり直しをお願いしたことがありました。
3回めの仕上がりを見て「何も変わってないな。。。困ったな」と思っていたら、
オーナーが、「でもね、杏それは難しいよ。っていうか職人さん4回もやり直しでがっかりしちゃってる」と言います。
「え、がっかりしちゃってる?」
「うん、てゆうか、でも4回やり直しは人間なら誰でもやになっちゃうよ。彼が特別なわけじゃなくて」
と言われたました。
そっか、確かにね。
どうしたらいいのかな。。と思って自分の今までの短い経験を振り返ってみました。
私は4年くらい会社勤めをしてたけど、いつも会社のためというより
自分のために働く事だけ考えていました。
だから会社を愛するとか、付き合い残業とか、一切しようとは思いませんでした。
将来独立しようと思ってたし、会社勤めの期間はいかにそのために多く学んで
将来に役立てるかを考えて、会社も社内での仕事も選んでいました。
なるべく早く会社を出て、仕事以外の時間は人に会ったり自分の制作に時間をかけることを心がけていたのです。
それでも一人、すごい上司がいました。
その人の元で働いてた時には会社を愛してはいなかったものの、
プロジェクトに自分のその時の全集中力を絞り出されてる気がしました。
なんでだろう?と不思議でした。
それは、その上司の仕事の渡し方がとても上手だったからだと思います。
彼ははじめに全部説明しました。
クライアントの会社形態について、その会社の社長の人柄、会社がある土地の土地柄、
プロジェクトにかかっている費用、それだけでなく細かい情報すべて。
いかに小さい仕事を渡すときにも面倒臭がらずに、と思うくらい丁寧にすべて説明してくれました。
それも下っ端の下っ端の私に、よくそんなに丁寧に、といつも時間をかけて説明してくれたと思います。
そして
「やってごらん」
という感じでとりあえず、任せてみてくれる。
独立したいという気持ちが強い私にとってはその、ある全部任せてくれるスタイルが
とっても嬉しくて、仕事の大小にかかわらず責任感を持っていつのまにかその仕事に没頭していました。
「会社の仕事」じゃなくて「あなたの仕事」と思わされることで
私は完全に全力を注いでいたのかもしれません。
やり直しを何回もらったかなんで記憶に無いです。
全体を把握してる仕事は自分の子供みたいに可愛くて、いくら手をかけてもがっかりどころか楽しくてしょうがなかったからです。
そして、おだてられると木でもなんでも登ってしまう私をわかっていて、よく褒めてくれました。笑。
もちろん経験浅の私に渡してくれる仕事の規模自体はとっても小さいし、
もし私が失敗してもその上司が一瞬で片付けられるような、それだけ超、能力が
ある人だったからできたやり方なのだけど
私はいつも自分の働き方をみて「この上司はすごいな」と思っていました。
。。。そういうふうにできないかな、とふと思ったのです。
(責任感を持ってもらうことと褒めることかな?)
そこで、初心に戻って、自分のブランドにかける思いと自分について再度語ってみました。
なんでジュエリーづくりに魅力を感じているのか。
なぜブランドを母親とやりたいと思ったのか。
なぜインドに居るのか。
将来の夢は何なのか。
家族はどうなってるのか。
最後に、どうしてこの工房の職人さんと仕事をしたいのか。
あなたなしではこのプロジェクトは成り立たないんです!!
ありがとう。大好き!
と言ってみました。
するとオーナーは、うん。わかった。どうもありがとう。
よく分かったし、一緒に頑張ろうって思ったよ。と言ってくれました。
でも次に、
でもねー、あの職人たちはベンガル出身なんだよ。
何を言っても通じないっていうか教養がまったくないし
きびしくしてもおだてても、あの人達いかに早く帰って家族と過ごすことしか考えてないからね。
10年以上使ってるけど分かり合えないんだよ。毎日頭が痛い。
と言われました。
そっか、、ベンガルのおじさん、なんといいお父さんなんだな。
「いかに早く帰って家族と過ごす」それ大事だよね。
というわけで、
「ゴールを共有して褒める」だけでなく、プラス「なるべく早く終わらせてさっさと家に帰る」
ということを重要事項において、
いかに職人さんのやり直しを減らし時間内はモチベーションをあげられるかを工夫することにしました。
仕事を渡す前によく下準備して、定期的に日本の仕上げ技術、道具などを紹介し、
モチベーションを保つというよりは飽きさせない工夫をすることにしたのです。
こういうことはマネージメント参考書を読めばすぐ書いてあるのかもしれないけど
今回はベンガルの職人さんに教えてもらいました。
おととい11日、デリーのインド最高裁が同性愛者の性交渉を「犯罪行為」とし、
2009年にニューデリーの高等裁判所が示した違憲判断を覆しました。
2009年にニューデリーの高等裁判所が示した違憲判断を覆しました。
この判決はイギリス植民地時代の約150年も前に制定された刑法の条項を有効としたものでした。
ちょうどジャイプールのゲイ・コミュニティーについてコラムを書きかけていたので
このニュースはタイムリーでした。
書きかけていたコラムではジャイプールのコミュニティーについて紹介し、
たしかにインドでは同性結婚は認められてはいないものの、異性結婚している人たちと比べて
どの程度不利に扱われているかというと、日本ほどではないのではないか、というものでした。
たしかにインドでは同性結婚は認められてはいないものの、異性結婚している人たちと比べて
どの程度不利に扱われているかというと、日本ほどではないのではないか、というものでした。
日本と違ってインドでは異性結婚にも自由がないし、扶養家族に特別な手当てがあるわけではないから、
という特殊な理由によるいわば「野放し」なことによって、政府が下手に介入するより個々には平等があると書いていたところでした。
という特殊な理由によるいわば「野放し」なことによって、政府が下手に介入するより個々には平等があると書いていたところでした。
しかしこの判決により判決を受けたカップルが投獄されればやはり失望させられてしまいます。
ただ希望を持ちたいのは国民やメディアの反発がものすごいこと。
2日たった今日も新聞は紙面の90%以上この判決に対する抗議の内容でうめつくされています。
新聞はデリーで行われた反対デモの様子を伝え、各大手企業が抗議のポスターを掲載しています。
また今回の判決には植民地時代の150年前の条項が使われたというが、
それ以前、インドという国ははたして同性愛者に対し、このような不当な姿勢をとっていたのだろうか、
と歴史的観点から考察し、これはインド的ではないと批判しています。
さすがは他宗教の国、インドでメジャーな各宗教の経典を持ち出し、
どの宗教においても神様はそんなこと言ってない、と説明もしています。
イスラム教はどうなの?と思うかもしれない。
ほとんどのイスラム国家では同性愛者の性交渉を「犯罪行為」とした上で
死刑にしている。
しかしインドのイスラム教はもちろん死刑は認めていない。
数多くの宗教を持った人が共存し、それでも大きな問題を起こさず
暮らしている国の人は違う。
インドの人は実体験からも学ぶ事を知っているし、完全にお互いを尊重していると
言いがたい面もありつつ実際にお互い影響を受けているので偏ってない。
こういうところが私が「古い国」が好きな理由でもある。
今回の最高裁の判決に対して、インドに住む一市民として抗議します。ただ希望を持ちたいのは国民やメディアの反発がものすごいこと。
2日たった今日も新聞は紙面の90%以上この判決に対する抗議の内容でうめつくされています。
新聞はデリーで行われた反対デモの様子を伝え、各大手企業が抗議のポスターを掲載しています。
また今回の判決には植民地時代の150年前の条項が使われたというが、
それ以前、インドという国ははたして同性愛者に対し、このような不当な姿勢をとっていたのだろうか、
と歴史的観点から考察し、これはインド的ではないと批判しています。
さすがは他宗教の国、インドでメジャーな各宗教の経典を持ち出し、
どの宗教においても神様はそんなこと言ってない、と説明もしています。
イスラム教はどうなの?と思うかもしれない。
ほとんどのイスラム国家では同性愛者の性交渉を「犯罪行為」とした上で
死刑にしている。
しかしインドのイスラム教はもちろん死刑は認めていない。
数多くの宗教を持った人が共存し、それでも大きな問題を起こさず
暮らしている国の人は違う。
インドの人は実体験からも学ぶ事を知っているし、完全にお互いを尊重していると
言いがたい面もありつつ実際にお互い影響を受けているので偏ってない。
こういうところが私が「古い国」が好きな理由でもある。
そしてこれはレズビアン、ゲイセクシャル、バイセクシャル、トランスジェンダー
だけの問題ではない。
わたしは今回の件を「少数派」の権利要求の一例として見ています。
同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく男女の平等がもっとも進んでいますね。
個人を男とか、女ではなく「個人」として尊重しているからかもしれません。
じゃあインドなんて、男女平等とは程遠い国で同性結婚なんて夢のまた夢なんじゃない、
と思うかもしれませんが、それに今、変化が起こり始めています。
先日行われた州選挙では女性の投票率を上げるための様々な工夫がされ
過去最高の投票率を記録し、それを成果として新聞でも大きく取り扱っています。
インドの人は実体験から学ぶことを知っています。
男女を区別することと差別することは違う。経済状況や人口急増の問題から
教育が十分でなかったころはこの認識がされていなかったけれど
もともと理解されていないわけではないのです。
「頭で考えればわかるでしょう」ではなく「心に聞いてみればわかるでしょう」
というような感覚で人と人が思いやることを知っているよう思います。
交通渋滞がひどいのに牛が道路を塞いでも怒らない、アリも殺さない、めちゃくちゃに見える国。
だけどそれは少数派の意志を尊重し、権利を認めている、「寛容度が高い国」ということでもあります。
インドにいると、不思議と、とても安心した気持ちになります。それはこの「少数派の意志を尊重し、権利を認める」という
国民性にあるのかもしれません。
それも無理矢理にやっているわけではない。
こちらも「認められてる」というか「牛と同じ扱いされてるな」という感じ。
でもその押しつけない思いやりは、実は習得が一番難しいですね。
でもそんな風に、少数派の権利を認めるということは実は多数派の幸せにつながっている。
牛もアリも人も同じ調子でなんとなく大事にされている、寛容度の高い社会はみんなが大事にされていると実感できる。
そんなのはきれいごとで、ひどい目にあっているインド人がたくさんいるだろう、という人のために。
先にも書いたようにそれは教育がないからという理由で引き起こされてる問題で、
逆に言えばこれだけ教育が行き届いてない社会で何とかやっているのは
この少数派を大事にできる思いやりのおかげだということ。
さて、それでは日本の現状はどうでしょうか。
日本では、同性結婚など話題にも上がらない。それどころか、結婚していない親から生まれた子供
(非摘出子)の権利が、法的に差別をされている。
教育で「これはいけませんよ」としっかり教える一方、「みんなと同じように」
と少数派を認める気持ちを養うのが難しいのでしょうか。